湯本
ゆもと
Yumoto
(フラガールと湯けむりに出逢える町)
スパリゾートハワイアンズ最寄り駅
2面3線ホームを持つが当駅には全ての特急ひたちが停車するために3番線の定期列車は1日1本のみ。駅舎側1番線下りホームには足湯が設けられている。発車メロディは「シャボン玉」だが作詞家「野口雨情」が痔の湯治のためにいわき湯本温泉を訪れ、そのまま3年半をこの地で暮らした事のゆえんである。
いわき市湯元温泉の最寄り駅で、駅周辺は温泉街。西側には東北地方で最も集客力のあるリゾート施設「スパリゾートハワイアンズ」が立地する。
路線
常磐線
日暮里起点
201.5km
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線
開業日 1897年(明治30年)2月25日
運営形態 業務委託駅
設置場所 | 改札窓口 |
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常磐線唯一の温泉観光の駅。湯本駅周辺のいわき市湯本地区は駅前から山側に向かって温泉街が広がっている。明治時代初期に常磐炭田の採掘が始まると坑内から温泉が多く涌き出て、石炭産業が斜陽化するとこれを利用して「いわき湯本温泉」という観光業に転換を遂げた経歴がある。因みに湯量は毎分5トンと世界屈指の量。道後温泉・有馬温泉と並んで日本三大古泉と呼ばれる名湯である。
設置場所 | 改札窓口 |
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常磐線唯一の温泉観光の駅。塩屋崎灯台、スパリゾートハワイアンズのフラガール、さはこの湯が描かれている。さはこの湯は当駅から徒歩約9分、平安時代から湧くとされる最古の温泉のひとつ。日帰りの温泉施設である。建物は江戸末期の建物様式を再現した情緒あふれるもの。
設置場所 | 改札窓口 |
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湯本駅マスコットキャラクタールアナちゃん・オアフくん。ルアナはハワイ語でリラックス、一緒に楽しむという意味。オアフはハワイ諸島のオアフ島が由来。いわき市はスパリゾートハワイアンズ誕生と共にフラ文化が生まれ、日本のフラ文化発祥の地「フラシティいわき」として街づくりを行っている。鳥なのはいわき市の鳥かもめか?福島県の鳥キビタキか?
駅名標。副駅名も書かれている
駅名標2
縦型駅名標
縦型駅名標2
柱にある駅名標は地元の学生が手作りしたものがある。木製で一つ一つデザインが異なる。こちらは南国
足湯
化石発掘
フラガール
温泉
ベンチに座る女性
温泉につかる「フラおじさん」
恐竜
温泉神社
ムコナくん
馬
ムコナくんとアンコウ
ホーム
待合室
トイレ
「ようこそ湯の里へ」と書かれた碑
いわき湯本温泉記
1番線ホームに無料で入れる足湯がある
足湯でインターホンを押すことによって飲み物を注文できる。アルコールもある
足湯のサイン
改札
みどりの窓口があった頃の改札
みどりの窓口のフォントが異なっている
ようこそ湯本駅へ
湯本駅マスコットキャラクター、ルアナちゃん・オアフくんの七夕
改札の横は休憩スペースとニューデイズ。2階にはお土産屋さんとギャラリー
2階のフリースペース
「フラ女将」という顔出しパネル
スピーカーからはハワイアンな音楽が流れている
駅周辺は温泉街。スパリゾートハワイアンズへの無料送迎バスが出ている
YUMOTOオブジェ
ようこそ湯本温泉郷へ
駅前にある足湯
駅の看板
湯本駅の文字
跨線橋を渡って駅の反対側は県道20号線
いわき市石炭・化石館 ほるる
いわきしせきたん・かせきかん ほるる
湯本駅から約1km
いわき市内で発掘された化石、常磐炭鉱の企業城下町として栄えた常磐市(現いわき市)の常磐炭田の採炭の歴史などについて展示を行う博物館。2022年3月の福島県沖地震により施設の一部が被害を受け長らく臨時休館していたが、2024年4月より再開した。
フタバスズキリュウのブロンズ像。いわき市大久町の大久川で化石が見つかった首長竜。全身の約70%の骨がまとまって採集され、日本の古生物学における重要な発見の一つとなっている
D51型蒸気機関車。昭和33年4月から昭和45年8月まで水戸鉄道管理局平磯関区に配属され、石炭輸送をはじめ常磐線の貨物輸送に大いに活躍した
スーパーサウルスの上腕骨。世界最大の恐竜だったが、後にさらに巨大な恐竜のウルトラサウルスやセイスモサウル巣などが発見されている
イワキクジラ。福島県四倉高校付近から約16体の鯨類化石が発見されている
化石展示室。世界的に見ても珍しい化石を展示する
エレモテリウム(オオナマケモノ)。最終氷期のアメリカ大陸に生息した最大で体長6mにもなる地上性ナマケモノ
プリオサウルス。首の短いタイプの代表的クビナガリュウ類
メソプゾシア。いわき市で最も多く産出するアンモナイトの一つ
珪化木(けいかぼく)。ケイ酸化(メノウ化)した木の化石。地層に埋没した樹木にケイ酸に富んだ地下水が浸透し、長い時間をかけて樹幹がケイ酸に置き換わってしまったもの
イワキクジラ頭骨、脊椎、上腕部。イワキクジラという種類はなく、福島県四倉高校校庭付近の約400万年前の地層帯から発見された16体以上のクジラ化石の総称
トリケラトプス。最大の角竜類で大きな群れをつくって暮らしていた
ティラノサウルス頭骨・後肢。ティラノサウルスは恐竜時代の最後に登場した大型の肉食恐竜。頭部は鼻先が細長く、幅の広い顔つきは両目で物を立体的に見ることができる。後肢は鋭い3本の爪と側面の蹴爪から恐竜類と鳥類の関係の深さがわかる
恐竜の糞化石。糞はすぐに腐敗したり形が崩れたりして化石になるのは難しいが、形が崩れる前に乾燥してしまうなどして化石になることがある。糞の化石の中から消化されていない食べ物が見つかればその糞をした生物の食性がわかる
恐竜の卵。同じ地層から発見されているヒプセロサウルスという恐竜の卵だと考えられている
トクソケリス。最大のカメ類化石として知られている
スミロドン。現在のライオンとほぼ同じ大きさの、サーベルタイガーと呼ばれる絶滅種。上顎の犬歯が巨大な短剣のような牙になっており、口を非常に大きくあけることのできる構造をもっている
学習標本展示室。いわき市の化石、石炭や岩石などの標本を展示する
世界全体には約4000種の鉱物がある。日本にはその内約1100種がある。そしていわき市にはその約200種が確認されている。これは日本の市町村の中で最高の数字
コハク。太古の樹木から排出された樹脂が長い年月をかけて化石化したもの。いわき市は岩手県久慈市、千葉県銚子市と共に日本三大コハク産地。いわき市からは約8500万年前のコハクが産出しており、これは世界的に見てもとても古いもので貴重
模擬坑道。石炭坑道と同じ枠が作られており、古い時代から現代までの石炭の掘り方を再現する
山神社と神棚。炭鉱、坑内での仕事は常に記念を伴うものであり、人々は山神社(ヤマの神)を信仰してきた。炭鉱関連の施設には神棚が祀られ、常に安全を祈願し意識することが人々の支えになっていた
狸掘り。安政3年の石炭発見から明治初期にかけての掘り方。石炭露頭を発見すると石炭層を無計画に採炭するものだった。ツルハシで石炭を掘るもので、掘り出した跡は簡単な支柱で支えた。掘った跡の空間が狸の巣穴に似ていることから「狸掘り」と呼ばれた
明治5年、いわき市内郷地域において最初に火薬を使った採炭を行ったという記録がある。タガネとハンマーで石炭層に穴をあけ、火薬と詰め物を詰めて発破をかける方法で採炭する
明治初期頃から圧縮空気を動力とした「削岩機」が使用された。孔を繰る速さが出炭量に多大な影響を及ぼし、画期的な進歩だった
太平洋戦争頃の手積み採炭。石炭を積むトロッコの大きさは各炭鉱によって異なり、賃金も積み具合によって変わった
サイドダンプローラー。スコップで石炭を積み込む作業は重労働であり、出炭と掘進能率を上げるためには機械頼み以外ないとの考えから、昭和30年頃から急速に機械化が進んだ
詰所。坑内に設けられた保安・生産・賃金を管理する現場事務所
ロードヘッダーによる掘進切羽。孔を繰って火薬を込め、発破を行い、積み込みを行う。これまでの一連の作業を一台の機械が行う。ガス観測手が炭層から湧出するガスの滞留がないか天井のくぼみを測定している
温泉の水位を下げないと採炭中に温泉が吹きだして危険なのが常磐地区の炭鉱の特徴。温泉の水位を下げるためにボーリングで排水していた。このお湯は温泉街に供給されている。高温多湿な環境での作業は体温がすぐに上昇するため、水風呂に入って体を冷やした
石炭を採掘した空洞に岩石と選炭ズリを埋め込んで地盤沈下を防ぐとともに、石炭を掘った後の自然発火を防ぐ充填
生活館。昭和10年頃の炭住や戦後の世話所・共同炊事場を復元。常磐炭田で飯場制度が始まったのは磐城炭鉱に炭住ができた明治30年頃
世話所。炭住区には一つずつの世話所がおかれ、区内の従業員及びその家族の世話活動を昼夜を通じて行っていた
自衛消防組織の消防ポンプ車。炭鉱での火災は一瞬で燃え尽きてしまう要素が潜在していたため、炭鉱には火災に備えるための私設の自衛消防団が設置されていた
ミュージアムショップ。常磐炭鉱石炭揚げ(カジキの竜田揚げイカスミペースト)、石炭飴
常磐炭鉱石炭揚げ。カジキの唐揚げにイカスミのオリジナルソースを絡めて真っ黒にしたもの。かつていわきで発掘されていた石炭を、現代で食べられる石炭として再現
いわき市考古資料館
いわきしこうこしりょうかん
湯本駅から約3km
旧石器時代から江戸時代までいわき市内の遺跡から出土した約1500点の土器などを展示する資料館。企画展示室ではいわき市関連に限らず様々なテーマの企画展を行っている。入館料は無料。
常設展示室
縄文土器。土器の表面につけられた縄目の模様から縄文土器と呼ばれている。そして縄文土器が使われる時代を縄文時代と呼んでいる
弥生土器。縄文土器より高温で焼かれるため薄くて硬く、模様がないのが特徴
古代の土器は土師器(はじき)と須恵器(すえき)と呼ばれている。土師器は弥生土器の伝統を受け継いだ素焼きの土器で模様がない、須恵器は朝鮮半島からの渡来人によって伝えられ、ろくろを用いて窯で焼くため青褐色で硬く仕上がっている
薄磯貝塚。縄文時代後半から終わり頃に作られた貝塚で、貝殻のカルシウム成分のおかげで縄文人が食べた貝や動物、魚の骨がそのまま残る
犬は縄文時代から家畜として村中で多く飼われていた。猟犬として野山を走り、狩りの手助けを行っていた
素焼きの皿を指す「かわらけ」。鎌倉時代以降に作られ、家を建てるなどの儀式や宴席での使い捨て容器として用いられていた
縄文時代には使い道の不明な道具がある。粘土を焼いて作った土偶は病気やけがの身代わりとする説がある
縄文時代には頭・耳・首・腕・胴を飾るアクセサリーが出現している。美しい石、動物の牙や貝殻などが使われており、権威のシンボルであったりお守りのような役割があったと考えられている
企画展示室
令和4年度、第3回企画展「いわきの縄文時代を探る 貝塚に学ぶ」
地球温暖化か進んだ縄文時代、人々が積極的に海洋に進出したことで貝塚が出現する。貝塚は集落のゴミ捨て場で食べ終えた貝の殻、動物や魚の骨を始め、壊れた土器や石器などの道具類も捨てられた
貝塚から見つかった腕輪。装身具は呪術的な意味を持ち通過儀礼などに使用された
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