坂元

さかもと

Sakamoto

震災により高架化され、内陸に移設された駅

所在地

宮城県亘理郡山元町

1日平均乗車人員

JR東日本(2021年)約190人

Train line

常磐線

上り
原ノ町・いわき方面

下り
岩沼・仙台方面

普通

どんな駅?

JR東日本


常磐線(日暮里起点)321.1km


開業日 1897年(明治30年)11月10日

 

山元町に位置する駅。震災により発生した津波の被害を受け、当駅を含む「駒ケ嶺」〜「浜吉田」間は内陸部に移設工事されただけでなく、線路と新地駅・坂元駅・山下駅は高架になった。

 

常磐線における宮城県最南端の駅かつJR東日本東北本部の南端駅。現在の駅舎は震災後に新しく建設されたもの。また従来の場所から西に約1.1kmの場所に移設されている。ホームは駅舎が新しくなると同時に、1面2線から1面1線の棒線駅に規模を縮小されたが増設可能な用地が確保されている。

 

駅周辺

 

新しい坂元駅を中心とした山元町の新市街地。海側の県道38号「相馬亘理線」に津波被害を受けた小学校が震災遺構として残され、当時の被害を伝承する場所となっている。

Stamp

設置場所 改札窓口

いちごと笑顔がキラリと輝く駅。坂元神社、いちご、坂元駅駅舎が描かれている。スタンプの坂元駅は震災後に再建されたもの。坂元神社は坂元城の鎮守として祀られたもので、城は廃城となるが神社は残り現在の坂元神社となる。現在の坂元神社は公園として整備され、桜の名所として有名。当駅のある山元町は穏やかな気候風土で「いちご王国」と呼ばれるほどのいちごの名産地。北に隣接する亘理町と共に東北一のいちご生産高を誇る。

Gallery

駅名標。常磐線宮城県最南端、かつJR東日本東北本部の南端駅。新地駅からは水戸支社

縦型駅名標。坂元とは山元町が発足する前の坂元村の事

ホーム。単線の高架駅。従来の地上駅舎は東日本大震災による津波で全壊し、新しい駅舎は西側(内陸側)に約1.1km移動し、かつ高架化されている

ホームから海側を眺める。現在の坂元駅から海までは3km圏内

ようこそ、坂元駅へ。2021年4月1日〜9月30日開催の観光キャンペーン「東北デスティネーションキャンペーン」

駅舎の中。設備がコンパクトにまとまっている。有人駅で駅のスタンプ設置駅。スタンプは駅員が所持しており、窓口営業時間が平日のみかつ時間がまちまち、常磐線の本数と相まって押印が難しい。以前は休日も開いていたような気がするが

待合室

トイレ

地元の中学生が作った震災前の坂元駅。モザイクアート作品。震災以前は1面2線の地上駅。同じ山元町の駅、隣の山下駅も全壊はしなかったが浸水被害を受けている

駅前ロータリー。山元町の新市街地が開発されている。ほぼ駅前にやまもと夢いちごの郷という道の駅のような農産物直売所が立地。徒歩約30分かかるが、県道38号沿いに震災遺構の中浜小学校が震災伝承の場として残っている

山元町広域のご案内、坂元駅周辺のご案内。四方山展望台、牛橋公園、深山「鎮魂の鐘」

みちのく潮風トレイル。ウォーキングコースのこと。深山山麓少年の家まで6.6km、龍昌寺まで10.9km、みちのく潮風トレイルルート本線まで0.3m

大きな葉っぱの形をした屋根がある駅前のベンチ

坂元駅の当地設置経緯、駅名由来。「坂本」の地名由来はこの地に「大神坂」という坂があり、その上に大神宮が祀られていて、その下の土地ということから「坂本本郷」と称したといわれています。「坂元」になったのは本の字が重複するため「坂元本郷」に書き改められたといわれています。

坂元駅の文字。坂元村は山下村と合併することにより消滅した

ポケモンのマンホール「ポケふた」がある。「ラッキー」と「ラプラス」。「ラッキー」と「ラプラス」。ディグダが掘った穴の跡にその印として誰かが絵を描いている。ラプラスはみやぎ応援ポケモン、ラッキーはふくしま応援ポケモンに選ばれており、山元町は福島県に接している事から2匹を描いたのだろう

Spot

やまもと夢いちごの里

やまもとゆめいちごのさと

坂元駅から約150m


津波により全壊してしまった「夢いちごの里」が8年ぶりに再建された直売所。坂元駅近くの国道6号線沿いに立地する。山元町名物のいちごやホッキ貝などを購入することができ、中にはフードコートもある。

山元町のキャラクター「ホッキーくん」

宮城県山元町歴史PRキャラクター「せんこくん」

TSUNAMIハーレー展示館。震災後に行われた復旧作業の際に見つかったバイク「ハーレー」を保管している

山元町名物のいちごやホッキーくんグッズを買う

山元いちご もういっこ

いちごのメレンゲ、やまもとバームクーヘン

山元産いちごをピューレに使用したいちごミルクキャラメルポップコーン

山元いちご農園のいちご果汁を使用したいちごサイダー

Petite Joie Storiesの「厳選いちごソフトクリーム」

Petite Joie Storiesの「苺ソーダ」

らーめんせん家の「ねぎ味噌らーめん」

そば処蕃山の「ミニほっきめしセット」

震災遺構 中浜小学校

しんさいいこう なかはましょうがっこう

坂元駅から約2km


東日本大震災の津波から屋上に避難した児童や地域住民ら90人の命を守り抜いた小学校。当校は地域住民の意向により、津波からの防災対策として2m程度かさ上げして建設されたため津波が屋上まで来ることはなかった。現在は防災教育と震災伝承の場として一般公開され、震災の被害を伝えている。

校門。校門や校庭からは震災前の小学校の様子を振り返ることができる

校庭。学校行事の中では児童がブルドーザーと綱引きをしたり、熱気球の搭乗イベントが開催されるなど地域を強い結びつきのある学校であった

職員室と校長室

鉄棒などの遊具

どこからか流されてきた鉄骨。校庭の南側には野球のバックネットや物置小屋がありその一部を考えられている。この鉄骨を見て津波の威力や流れの方向、様々なものを巻き込みながら襲ってくることがわかる

掲揚塔(けいようとう)は震災遺構を整備する際に新たに設置され、ポールの先端はこの場所における東日本大震災の津波の高さに合わせて作られている

津波の石碑。明治と昭和の三陸地震津波の被害を後世に伝えるためこの地域に建てられたもの。震災後に中浜地区で発見されこの場所に移設された

日時計の丘。大津波の翌朝、屋上で手を振る子供たちに気づいた自衛隊のヘリコプターが救助に来た。その着陸位置に丘を築き日時計のモニュメントを設置した

校舎2階部分に津波到達点を表すものとして青い目印がある

震災前ここには体育館があり、その西側にクロマツが数本並んで植えられていた。震災後津波に耐えた1本を「奇跡の一本松」として残したが残念ながら枯れてしまう。そこで一本松が落とした種から生えた苗を同じ場所に植え、記憶を繋いでいる

倒れた時計台。津波が時計台を巻き込んで北に流れていった事、津波が頑丈なコンクリート製の柱を根元から押し倒してしまうほどの力を持っていたことがわかる

渡り廊下跡。校舎と取り壊された体育館を結ぶ渡り廊下の屋根は頑丈な構造だったため倒壊を免れた。渡り廊下の屋根は取り壊されてしまったが渡り廊下の足元に敷かれていたタイルの一部が今も残っている

志賀先生記念の池の石碑。赤痢菌(せきりきん)を発見したことで知られる細菌学者の志賀潔先生は山元町で晩年を過ごしていた。震災前、校長室の前には小さな池があり、石碑はその傍らにあったもの。石碑は重さ約2tで津波の力で17mほど押し流された

建設当時の6年生によってデザインされたレリーフ。漁船でのサケ漁、ホッキ貝と松の木。津波はレリーフのある校舎2階が水没してしまうほどの高さだった

外側に開くはずの扉が内側に開いている職員玄関。津波が引き戻る強さは建物や人的被害を大きくした要因の一つとされている。ガラスが割れずに残っているのは現在は取り壊された体育館が引き波から校舎を守り、津波の威力を弱めたことが理由と推測される

多目的ホール。昇降口や海側の教室、廊下など多方向から襲来した津波が運んできた堆積が蓄積している

多目的ホールは吹き抜けで大きな壁にヨットが木組みで描かれている

卒業生の制作物。この校舎が建設されたのは平成元年、これは昭和62年度卒業生制作とあるため旧校舎時代の児童の作品

図工室。大地震の時は4年生の書写の授業が行われていた

児童は急いで机の上に入って揺れが収まるのを待ち、その後担任の先生の指示のもと2階に避難した

中庭。2階の窓ガラスは破壊を免れたものが多く、ステンドグラスも1枚を除いて健在

給食室。金属製の水道管やガス管の曲がり方から津波を威力を思い知らされる

教室。津波で破壊された大きな窓からは大量の瓦礫が入り込み校舎内に堆積した

児童、教職員、保護者ら90人が避難した校舎の屋上。ここの見学はガイドによる付き添いが必要な場所。寒い夜の中、小屋の中で寒さをしのぐ工夫をしながら一晩を過ごしたという。小屋の中は撮影不可

屋上から見る中庭。張られたネットは津波の浸水高を表している

海が見える屋上。ここから海までわずか400mしか離れていない

図書室。大地震後図書室の廊下で児童の人数確認が行われ、津波の予想高さが6mから10mに引き上げられたことを受けて屋上への非難を決断した

屋上への階段がある資料室。児童の多くは屋上へ上がる階段の存在を知らなかった

屋上への階段。津波が屋上より高かったらどこにも逃げ場がなく「のぼったら生き延びて降りるしかない。」児童を最優先とし最後に階段を上った校長先生はこれまで感じたことのない重圧、児童の命を守るという責任の重さを感じたという

外階段。万が一の時、夜間や休日でも地域住民が避難できるよう事前の防災対策として作られたもの

音楽室。防音のため強固な造りとなっていたためか、大きな被害を受けていない

音楽室の壁に残る津波の跡

 

 

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Column

TSUNAMIハーレー展示館

 

TUSUNAMIハーレー展示館について

 

「社団法人まちづくりやまもと」代表理事の成毛政考(なるけ まさたか)氏が、2012年に山元町在住の横山育生氏のオートバイがカナダに流れ着き、米国のハーレーダビッドソンミュージアムに展示されることになったニュースを知り、設置を思い立ちました。

 

自動車販売整備業者である成毛政考は震災後、自動車振興会の会として復旧作業に参加し、ひしゃげた自動車などを重機で回収するつらい作業の中、見つけたのが顧客である佐伯和浩氏の今回の展示しているハーレーでした。

 

右ハンドルが取れ、ブレーキパイプで辛うじてつながるなど損傷が激しく、再生は不可能に思えましたが、スクラップにするのは忍びなく、所有者の許可を得て保管していました。

 

佐伯氏のご家族は無事でしたが自宅は津波で流失し、町内陸部に移転しています。「つらい記憶を思い出してしまう半面、初めて手に入れて20年以上乗ったハーレーで愛着がある。展示したい成毛さんの思いを受け止めたい」

 

という所有者の思いと

 

「自分もバイクに乗るので捨てたくなかった。津波を後世に伝える展示にしたい」

 

という成毛氏の思いが重なり展示に至りました。

 

 

なお、もう一台の展示車両は、同業である有限会社 玉田自動車商会が亘理町で撤去したハーレーで、現在では珍しいサイドカー付きの車両です。

 

 

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