湖北
こほく
Kohoku
湖沼(手賀沼)の北にある駅
我孫子市に位置する駅。湖北とは湖の北にある地域の事を指すが、ここにあるのは…。
当駅のホームには担ぎ台と呼ばれる台が設置されている。かつて多くいた野菜行商の女性達がこの台を利用し、数十キロの荷物を背負ったまま休憩をし電車を待っていた。7台の内3台はそのままに2台は我孫子市のイベント用、もう2台は埼玉県さいたま市の鉄道博物館に寄贈された。
路線
成田線
我孫子支線
我孫子起点
6.3km
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 1面2線
開業日 1901年(明治34年)4月1日
運営形態 直営駅(管理駅)
設置場所 | 改札窓口 |
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野鳥と手賀沼の駅。手賀沼は柏市・我孫子市・白井市・印西市にまたがって位置する沼であり、道の駅やサイクリングロードなどが整備される行楽地となっている。距離や利便性を総合的に見て我孫子駅が最もアクセスに適す。その風光明媚な景色からディズニーランドの建設予定地だった経歴がある。
駅名標
駅名標2
縦型駅名標。旧湖北村、もしくは手賀沼(湖沼)の北にあるから
ホーム。上下線折り返し可能。成田線に少ない1面2線島式ホーム
1番線の奥に2本側線がある
番線表示。1番線は千葉と佐原、2番線には東京と品川、水戸まである。ここで水戸を表記する理由とは?
かつて盛んだった東京への野菜行商を支えた「担ぎ台」。数十キロの野菜を担いだ行商人が荷物を背負ったまま一休みできるように設置されたもの。高さ67cmありそのまま座るには適さない
番線表示2。成田線の品川行きは朝と夜の片手で数えられる本数のみ
鉄道車両の写真。左上からリゾートゆう(485系)、E231系、N700系、185系。E231系と185系は「下総松崎」〜「成田」間の西野内踏切で撮影したものと思われる。185系は成田臨だろう
トイレ。水回り関係のスペース確保のため床を高くし出入口に階段を設ける。このタイプのトイレ交通バリアフリー法制定(2005年)前に開業した駅に多い
改札の外。当駅の利用客は我孫子支線の駅の中でも多く、有人駅
北口・南口の看板
自動券売機
みどりの窓口。2024年3月11日に閉鎖され、代わりに指定席券売機が設置された。同時に木下駅と安食駅も廃止となり、これで我孫子支線のみどりの窓口は全滅。我孫子駅はすでに廃止済みで成田線から乗り換える客も多いだろうに・・・
きっぷのご購入等に関するご案内。佐倉駅は近隣・・・なのか?近隣のみどりの窓口に向かう際には運賃を払い戻してくれるサービスがあるようだ
閉鎖されたみどりの窓口。自動券売機の上にあった蛍光灯のサインも撤去
改札外コンコース。だいぶ広い
懐かしの成田線写真展。蒸気機関車や気動車が走っている
懐かしの成田線写真展、湖北駅やその周辺
よみがえれ手賀沼。かならずできる一人一人の力で。我孫子市には手賀沼課の一つに手賀沼課というものがある
北口出入口。長時間利用がないと止まるエスカレーター
静かな北口。北に徒歩約30分、古利根沼の北側は利根川を越えていない場所だが茨城県取手市。千葉県の県境は全て川ではない
南口。北口と比較しやや発展したイメージ。当駅は手賀沼の北にあるから「湖北」なのだが当駅から手賀沼までは遠く、約3kmは離れている
駅前のイルミネーション。当駅は我孫子のイルミネーションスポットの1つ
もっとに便利に成田線。我孫子市議会 成田線複線化促進議員連盟。成田線我孫子支線は全線単線。上野行きに乗れば「東我孫子」〜「木下」間は上野駅まで1時間圏内というポテンシャルはあるが、いかんせん本数の少なさが悪目立ちする
観光案内板。岡発戸(おかほっと)・谷津ミュージアム、五本松公園、正泉寺、湖北台中央公園、自然観察の森(古利根公園)、中峠亀田谷公園、日秀観音、首曲がり地蔵
駅の看板
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「我孫子」〜「成田」間を結ぶ成田線我孫子支線は全10駅、32.9kmに渡る路線である。
沿線は我孫子市と印西市を中心としたベッドタウン。常磐線快速と直通運転を行っていて乗り換えなしで東京都心まで行けるようになっているが、本数の少なさがネックで日中は毎時2本しか運行されない。それ故に利便性が高いとは言えず、利用客が多い駅でも1日4000人程度。利用客は自家用車や路線バスで運行本数の上回る常磐線や北総線に流れていく傾向がある。
また、沿線に有名観光地があるわけでもない(成田山新勝寺を除く)。一応都心まで直結しているが本数の少なさが目立って何とも言えない微妙な路線になっている。
そんな地味な我孫子支線、実は上野東京ラインみたいな感じで愛称がついていたことがある。その名も「水空(すいくう)ライン」である。
これはとあるバラエティー番組の企画で、2001年の我孫子支線全通100周年を記念して我孫子支線に愛称をつけようというもので決まった。
愛称は市民から募集し最終候補として「成田四季彩線(なりたしきさいせん)」と「水空ライン」の2つに決まり、JR東日本関係者、当時の我孫子市長、沿線自治体の関係者、番組審査員による審議の結果「水空ライン」が選ばれた。
「水空ライン」の由来だが、沿線に手賀沼・利根川・印旛沼といった水域が多いこと、そして成田線が成田空港へのアクセス路線としての役割があるからだろう。(ただし我孫子支線は成田止まりで成田空港方面へ直通しない)
めでたく愛称は決まったが実際に使われることはないに等しく、沿線自治体当局で使われる程度だった。
これは駅における案内表記の更新に費用がかかるために使われなかったと思われる。特に利用客が多いわけでもない路線に費用と手間をかけてまで「水空ライン」と変えるメリットがあるのか?とJR東日本は判断したのだろう。
水空ラインはその活用範囲の狭さから周囲に認知されることはほとんどなく、結局成田線のまま変わることはなかった。現在その愛称を知るものは鉄道好きくらいしかいない・・・?
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