東成田
ひがしなりた
Higashi-Narita
寂れすぎた元成田空港駅
千葉県成田市
京成電鉄(2021年)約720人
芝山鉄道(2019年)約370人
京成東成田線・芝山鉄道線
東成田線上り
京成成田・
京成上野・押上方面
芝山鉄道線下り
芝山千代田方面
快速特急
特急
通勤特急
快速
普通
かつての成田空港駅だった場所。1991年に現在の成田空港駅が開業し、そちらに空港へのアクセス手段と名前を譲ったと同時にこの駅は「東成田」へと変わった。
2面4線ホームで1・2番線が優等列車とスカイライナー、3・4番線が普通列車・・・だった。芝山千代田方面と繋がる3・4番線側が現在の1・2番線として使用されている。過去の1・2番線側は芝山千代田方面と繋がらず行き止まりで現在は留置線として活用されており、ホームは立入禁止。
路線
東成田線
京成成田起点
7.1km
駅構造 地下駅
ホーム 2面4線
開業日 1978年(昭和53年)5月21日
路線
芝山鉄道線
東成田起点
0km
開業日 2002年(平成14年)10月27日
運営形態 京成電鉄管轄
※2022年6月現在の配線図です。
設置事業者 | 京成電鉄 |
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設置場所 | 改札外 |
旧成田空港駅、初代スカイライナー。東成田駅は1978年に京成本線(現東成田線)の終着駅として開業した。1991年に新しい京成本線と成田空港駅が開業すると以前の成田空港駅は東成田駅に名称を変え、東成田線の駅となった。初代のスカイライナーだが、京成本線経由だったため「日暮里」〜「空港第2ビル」間は約51分かかっていたようだ。
駅名標
縦型駅名標
静けさの漂うホーム。当駅の立地上、利用客の大半は成田空港関連会社の通勤客
2024年4月21日、臨時特急ほくそう春まつり号の始発駅として当駅が選ばれ、多くの人が集まった
奥のホームは閉鎖され使われていない。あちらは元々スカイライナーが発着する特急用ホーム。現在は軌道を留置線として使っている模様。イベント関連であちらに電車が入線したり、ホームに立ち入れたりする
芝山鉄道線0キロポスト。芝山千代田寄りの単線上にある。ホームからは離れており、薄暗いため目視では確認しにくい
旧ホームの駅名標。現ホームから薄暗いながらも確認可能。成田空港、「次は成田」と書かれている。当駅が成田空港駅だった頃は芝山鉄道線がまだない
旧ホームの駅名標2。下の茶色い部分は広告スペースか?
旧ホームののりば案内。2番線上野方面。かつては旧ホームが1・2番線、現ホームが3・4番線
サインいろいろ。現在も残る駅のサインたち。売店のサインからは成田空港駅だった頃の名残を強く思わせる
サインいろいろ2
改札内。明かりがない薄暗い場所がある
トイレ。廃墟みたいな当駅だが、トイレは綺麗
使われなくなった窓口。ここできっぷでも販売していたのか、はたまた案内所だったのか・・・
改札の中に封鎖された階段。ここから出ると改札を通らず地上に出てしまうため封鎖されている。工事用のバリケードなのがより廃墟感を引き立たせるスパイス
壁の向こうには何が・・・
閉店した店の名前が見えた。COFFEE SHOPエクレールか?ネットの情報によると、当駅に喫茶店があった
改札。こんな寂れた駅でも有人駅
旧-成田空港駅(現:東成田駅)。新東京国際空港が成田市三里塚に決まったのは昭和41年7月。京成電鉄ではすぐに新線の建設を考え、昭和45年11月に着工、47年11月に完成しました。また同年春には空港専用特急<<スカイライナー>>を30両新造しました。
改札付近に空港第2ビルへと続く通路がある
空港第2ビル駅への連絡口。距離は約500m。途中圏外になる場所がある
通路を抜けると空港第2ビル駅の検問所付近に出る
「曲水の宴」という大きなレリーフ。曲水の宴とは庭園の水辺で水の流れに合わせて詩歌を詠む平安時代の貴族の遊び。日本に入国した外国人観光客に日本らしさを伝えるため設置したとか
くずもの入れ。現在使われているかは不明
成田空港輸送40周年のポスター。かつてのスカイライナー、平成12年頃の成田空港駅、成田空港開港を祝う成田空港駅(現東成田駅)
世界の街までドア・ツー・ドア<海外ペリカン便 ジェットパック>
住友林業の家
駅周辺は成田空港敷地内。空港東通りが上を通っている。理由がなければ訪れる場所ではない
封鎖された駅の階段
駅の看板。京成電鉄と芝山鉄道
第5ゲート出入口へ。電車が到着すると意外にも人通りが見られる
第5ゲート出入口周辺。空港東通り3交差点西側。成田空港第1ターミナル、貨物地区方面。貨物地区は関係者以外の入構禁止
第5ゲート、東成田駅入口。中に警備員がいるが、一般人でも普通に通れる
第5ゲートの看板
第5ゲートから東成田駅への出入口
成田国際空港管理規定。所々上からテープが張られている。一番上の「成田」の下は恐らく「新東京」
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(空港第2ビルのページ「成田空港ができるまで〜血に濡れた大地〜」の続きです)
都心から約60km、年間利用者数4000万人以上を超える成田空港は日本最大の国際拠点空港である。開港から40年以上たった今も日本の空の玄関口として活躍している。
しかしそのような成田空港が現在に至るまで壮絶な過去があったのだ。今では考えられないような辛く、重いものである。
1978年3月、当初の計画の半分となる1滑走路と1ターミナルで空港が開港した。世界中にも発表されていたため、大きな注目を浴びていた。
しかし開港予定前日の日、スタッフが開港に向け訓練をしていたところを反対同盟とそれを支援する新左翼グループ過激派の襲撃を受ける。
反対派の巧妙な戦略により管制塔に侵入され、設備を2時間にわたり破壊。開港は延期を余儀なくされてしまった。
この事件により反対派及び支援者合わせて168人が逮捕となった。開港前の取材に来ていた世界のマスコミにも知られることとなり、この事件の影響で日本への信頼が大きく落ちてしまうこととなる。
事件発生後、「新東京国際空港警備隊」が設置され継続的に反対派に対応することとなる。この警備隊は後に「千葉県警察成田国際空港警備隊」と名前を変え、現在も成田空港の警備にあたっている。
その後も都心と空港を結ぶ京成のスカイライナーが放火されるなど、周辺の空港関連施設の襲撃を受け続けたが、1978年5月になんとか空港を開港することができた。この時はまだ「成田空港」ではなく「新東京国際空港」だった。成田空港に改名したのは2004年のことである。
開港後もアドバルーンを上げて妨害工作するなど反対派の活動は続く。長きにわたり争いが続くが一部住民に「我々の世代で反対運動を終わらせよう」という声が出てきた。
国もこの声に反応し1990年、運輸大臣と反対同盟の対話を行い、何がいけなかったのかを徹底的に話し合った。その後1993年に開かれた空港の円卓会議で今後の空港整備について話し合った。
そこで出たのが対立構造の解消、新しい滑走路は話し合いで造る、3本目が必要だったら再度話し合う、騒音や落下物の対策をすること、地元への振興対策をする、といったものだった。
その後も少なからず残る反対派の襲撃を受けながらも2期工事の完成を求める著名が26万人分集まり、計画から40年たった2002年に第2滑走路が完成し、運用が開始された。
地域の人からの理解をいただき、次第に争いから共存の道を進む空港。元々反対派だった人も含め、第2滑走路からさらに第3滑走路を造る要望が住人側から挙がった。とうとう住人側からも協力の声が出てくるようになったのだ。
長きに渡る闘争を乗り越え、ようやく空港と地域の想いがひとつになった。そして時は流れ、空港は名称が「新東京国際空港」から「成田国際空港(成田空港)」に変わる。成田空港へ日本最大の空港へ、日本を代表する空の玄関口として繁栄していくことになる・・・。
おしまい
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