流山

ながれやま

Nagareyama

古くからの流山市の中心地

所在地

千葉県流山市

1日平均乗車人員

流鉄(2020年)約1,050人

Train line

流鉄流山線

上り
馬橋方面

 

どんな駅?

流鉄

 

流鉄流山線の終着駅。

 

駅周辺

 

駅周辺は古くからの流山市街地であり古民家が多いため、首都圏でありながらどこかノスタルジックな雰囲気が漂う。

 

つくばエクスプレス「流山セントラルパーク駅」まで約1.5km。

流鉄
 

路線

流山線

馬橋起点
5.7km

 

 

駅構造 地上駅

 

ホーム 1面2線

 

開業日 1916年(大正5年)3月14日

 

運営形態 有人駅

 

Tracks map

流鉄流山線

流山

1面2線ホーム。1番線側に車両基地があり、2番線は行き止まり。2番線は朝のラッシュ時にしか使われず、それ以外の時間帯は全て1番線に発着する。流山線は基本的に2編成が小金城趾駅で上下線の列車交換を行うため、わざわざ車両基地に繋がらない当駅の2番線に発着する必要がない。

 

出典「配線略図.net」https://www.haisenryakuzu.net/

Stamp

設置場所 改札外

水と緑と歴史。スタンプに描かれた近藤勇陣屋跡は当駅から徒歩約4分。新選組局長「近藤勇」が部隊を再編成するため最後に陣営を敷いた場所。後に新政府軍に包囲されてしまうが、近藤勇は流山が戦いの場になることを嫌い、ここで自首したと伝えられる。本陣の建物は現存しない。

Gallery

駅名標

駅名標2。隣の駅と矢印の主張が強い

縦型駅名標。つくばエクスプレス開業から利用客の減少速度が加速し、1日の乗車人員が1000人を割りそう

縦型駅名標2。流鉄のキャラクター「流之進(りゅうのしん)」入り

ホーム。基本的に1番線に発着し、2番線は朝のラッシュ専用。利用客は流鉄で並程度だが、比較的近いTX「流山セントラルパーク駅」に利用客を奪われている

 

番線表示

1番線側に車両基地

平日時刻表。古そうだが2023年5月現在訪問時、平日・土休日もこの時刻表は正しかった。2024年5月現在は平日7時台の5本運行が4本に減少するなど、減便傾向

土休日時刻表。2023年5月現在。ローカル線だが東京都心部に近いため、それなりの本数がある

2024年3月16日改定の時刻表。フォントが変わっていたり、左上の流鉄のキャラクター流之進

流鉄仕様の自動販売機。5000形、橙色の「流星」。流星は2021年1月21日から塗装が変わっており、これは塗装変更前のカラー

アニメ「普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。」流鉄開業100周年を記念するもの。「ろこどる」とはローカルアイドルという意味で、当作品は流山市がモデル

薄桜鬼(はくおうき)×流山。アドベンチャーゲームを原作とする薄桜鬼と流山市のコラボ。その企画の一環として流山駅に薄桜鬼のキャラクター「原?左之助」の等身大パネルが置かれた

改札。馬橋駅から流山駅までの運賃は大人220円。因みに一日フリー乗車券は大人500円。3回終点まで乗り通してようやくお得になる

 

駅周辺は古くからの流山市の市街地。流山市役所まで徒歩約3分、流山市立博物館まで徒歩約5分、近藤勇陣屋跡まで徒歩約4分、TX流山セントラルパーク駅まで徒歩約20分

駅前に自動販売機いっぱい。ゴミ箱もいっぱい。当駅は駅前にコンビニがないため助かる

駅の看板。1990年代は1日の乗車客が4000人を超えていたことがあったが、今ではその4分の1程度に

流鉄開業100th Anniversary。2016年3月14日、おかげさまで流鉄流山線は開業100周年を迎えます。1916(大正5年)年に町民の出費によって開業して以来、流山市民の通勤、通学、買い物等にかかせない身近な足として親しまれています。

Spot

流山市立博物館

ながれやましりつはくぶつかん

流山駅から約350m


流山市立中央図書館と併設。流山の風土・歴史をたどることができる博物館。第2展示室は市民ギャラリーのようなスペースになっており企画展が開催される。入館料は無料。

流鉄100周年記念流小号ヘッドマーク。流山線開通100周年に合わせて流山小学校児童がデザインしたもの

流山は白みりん発祥の地。江戸川流域の良質なもち米を利用した流山のみりんは、大量消費地である江戸に近かったため生産は順調に伸び、全国的に広まった

地下鉄千代田線3月31日全通ポスター。「代々木公園」〜「代々木上原」間が開通し小田急線と一部相互直通運転と書かれている

流山は昭和30年代に入っても人口が2万人にも満たなかったが、南柏駅近くに500戸の住宅団地の建設、東武野田線「初石」〜「運河」間に計画された江戸川台団地によって人口が急増した

近藤勇陣屋跡

こんどういさみじんやあと

流山駅から約300m


鳥羽・伏見の戦いで官軍に敗北した江戸幕府軍は江戸に戻ったが、新選組局長の近藤勇は流山に移って陣を敷いた。なぜ流山だったのか、会津藩へ向かう途中散らばった同志を集め新たな部隊を編成するために官軍が手薄であった道を選んだ、当時の流山は水運業と醸造業が盛んであったからという説があるが、明確な理由は不明。

国登録有形文化財「秋元家住宅土蔵」の修繕工事が長らく行われている

 

花輪城址公園

はなわじょうしこうえん

流山駅から約1.5km


十六世紀戦国期に松戸市小金の大谷口城を本拠地として、周辺一帯を支配していた高城氏に属する城。北を除き急な斜面に囲まれた天然の要害である。花輪城は高城氏が滅亡した十六世紀末にその役割を終えたと考えられている。

枇杷首観音堂跡はかつて県道付近に本堂があった真言宗西福寺境内の観音堂

空堀

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