所在地
千葉県野田市
1日平均乗降人員
東武鉄道(2021年)約7,830人
かつては地上駅で2面3線ホーム。当駅止まりの列車もあった。高架化工事に伴い1面2線に縮小され高架後も1面2線のままだが、将来的に2面4線に拡張される予定である。新駅舎は昭和初期に作られた旧野田町駅の雰囲気を継承する立派なもの。早朝に当駅始発の普通大宮行きが設定されている。
キッコーマン本社最寄り駅。かつては駅に隣接する醤油工場から貨物輸送が行われていたため、駅の面積が広い。さらに東武野田線の前身である総武鉄道の本社が当駅にあった。
東武アーバンパークライン
(上り) |
(下り) |
おしょう油のふるさと・野田。スタンプに描かれているのは関宿城。千葉県野田市の北端、関宿地区にある。鉄道駅から遠いので東武動物公園駅や川間駅からバスに乗る。関宿城は利根川水系等の要地で関東の水運の拠点だった。現在の関宿城は復元された千葉県立関宿城博物館。
8000系。東武鉄道の顔ともいえる車両で1963年から1983年にかけて712両製造された。東武鉄道のほぼ全線を走行している。
駅名標。カッコ書きでキッコーマン野田本社前
かつての駅名標。カッコ書きでキッコーマン野田本社前
ホーム
ホームから見える観覧車は「もりのゆうえんち」
工事が進み、新たなホームが見えてきた
高架線切替工事中だった頃
地上駅だった頃にあった地下歩道。ホームと駅舎を結ぶ
改装中の駅構内
祝高架化
改札
野田市駅周辺観光案内図
駅前はキッコーマンの工場などが立地する。野田市の中心市街地にも近い
キッコーマンの工場
仮駅舎
仮駅舎の看板
駅の看板
野田市駅の文字
野田市郷土博物館・市民会館
のだしきょうどはくぶつかん
しみんかいかん
野田市駅から約700m
野田市や醤油の歴史などに関する展示を行う野田市郷土博物館と、野田の醤油醸造家である茂木佐平治の邸宅を市民会館として開館した野田市市民会館が立地する場所。庭園は千葉県初の国登録記念物である。どちらの施設も無料で入れる。写真撮影は郷土博物館では不可。市民会館では撮影できロケ地てして人気が高い。
野田市郷土博物館。入館料は無料
醤油仕込みの桶の底板。底板のつぎあわせには竹串を用いるが、使い込むうちに醤油の油が染みて非常に強くなる
空気圧縮機(コンプレッサー)。蒸気を動力に圧縮空気を作って諸味を混ぜる。現在は電気の力で圧縮空気を作るのが主流
箱式石棺。古墳時代末期頃、豪族の遺骸を収め古墳に埋められたもの。筑波山から切り出された雲母片岩を使用している
醤油の諸味をしぼる際に使われた吊り石。100kg前後ある自然石の吊り石を太縄の一端にしばり、締木に吊るしテコの原理を応用して諸味をしぼった
ツツジ
野田市郷土博物館マスコットの「ドグウのミミー」。野田貝塚出身のミミズク型土偶、約3000歳
萌え化?
野田市市民会館として利用される旧茂木佐平治邸。CMやドラマのロケ地などに幅広く利用されている。
玄関
衝立(ついたて)「飛魚図」
靴を脱いで市民会館内を見学
雰囲気がある
台所
部屋
気になったものを撮る
気になったものを撮る2
気になったものを撮る3
洗面所
風呂
庭園へ
市民会館の庭園。国登録記念物
大泉水
茶室「松樹庵(しょうじゅあん)」
もりのゆうえんち
野田市駅から約1km
ショッピングモール「イオンノア」に隣接する子供向けの遊園地。高さ65mの観覧車「ジャイアントホイール」を中心にバッテリーカーやコースターなど16のアトラクションがある。入園料は無料であり、アトラクションを利用する際に料金を支払うスタイル。
東武鉄道 | ||
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駅構造 | 高架駅 | |
ホーム |
1面2線 |
|
開業日 |
1911年(明治44年) |
|
路線 | ||
東武野田線 |
||
駅番号 | TD17 | |
キロ程 |
28.6km |
|
愛宕 |
梅郷 |
|
年度別1日平均乗降人員 | ||
2010年 | 9,960 | |
2012年 | 10,400 | |
2014年 | 10,400 | |
2016年 | 10,200 | |
2018年 | 10,100 | |
2019年 | 9,930 | |
2020年 | 7,390 | |
2021年 | 7,830 |
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千葉県は全国有数の醤油の生産地であり、生産量は日本一を誇る。国内の醤油生産量3割を占め、キッコーマン・ヤマサ醤油・ヒゲタ醤油といった大手醤油メーカーの本社や工場が立地しているほどだ。中でも野田市はキッコーマンの発祥地であり、その歴史は深いものである。
そもそもなぜ千葉県は醤油生産が盛んなのか、その歴史を辿ってみよう。
約350年前、千葉県北東部に位置する現在の野田市は東を江戸川、西を利根川に挟まれている地形に加えて、野田は江戸(東京)に近かった。この地勢から水運が盛んであり、関東平野で採れた大豆や小麦が利根川と江戸川をつたって野田や江戸、銚子に運ばれていた。
醤油の原材料は大豆・小麦・食塩の3種類。大豆は現在の茨城県、小麦は現在の埼玉県と群馬県、塩は江戸川下流に位置する千葉県の行徳で生産が盛んだった。そして利根川と江戸川に接する野田は醤油の材料3種類全てを水運で集めるのにうってつけな場所だったのだ。
集めるだけでなく、運ぶのにも江戸に近かったため、完成した醤油は江戸川の水運で約半日ほどで江戸に運ぶことができた。これにより、野田は醤油の名産地として栄えていくことになる。
明治に入って醤油の需要が高まると水運では輸送が追い付かなくなり、千葉県に対して醤油を輸送する鉄道の建設を要請する。これにより1911年に野田と柏を結ぶ千葉県営鉄道の野田線が開業した。柏駅から常磐線を経由して日本の各地に野田の醤油が運ばれていったのだった。
そして1917年には野田のしょうゆ醸造家一族が合同して「野田醤油株式会社」を設立する。後の「キッコーマン」である。
キッコーマンの由来だが、これは醸造家一族の一家である茂木家の醤油銘柄の商標「亀甲萬」のことである。茂木家は数ある野田の醸造家の中でも高品質な醤油をつくることで人気を集めていた。
銘柄の由来は千葉県香取市にある香取神宮の宝「三盛亀甲紋松鶴鏡(みつもりきっこうもんまつつるきょう)」が元である。鏡の裏側に書かれた六角形の模様、「亀甲紋様」を図にした。そして「鶴は千年亀は万年」ということわざから「萬(万)」の字を入れた。これが「亀甲萬」となる。
会社は次第に成長を続け1980年には社名が現在の「キッコーマン」になる。一方で醤油の輸送はトラック輸送が主力になっていったため、水運は行われなくなり、野田線の貨物輸送は1985年を持って終了した。
貨物輸送が行われなくなった野田線は東京都心に近いという地勢からベッドタウン路線として変わっていくことになる。沿線は宅地開発が進み、単線が多かった線路も需要が増えると複線化されていった。後の「東武アーバンパークライン」である。
・・・というのが野田市と醤油の歴史なのだ。東武アーバンパークラインはもともと江戸に醤油を運ぶための路線として敷設された経歴もあることから野田市は醤油で栄えた町だということがよくわかる。
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